イタリアとの出会い




父は山登りが好きだった。
といってもいわゆる登山ではなく、近くの山へきのこをさがしにいったり、
たけのこをほりにいったり、うど、みょうが、山椒、・・・

季節ごとにいろんなものを探しがてら 山へ入っていった。
時には一握りの野の花を母に持って帰ったものだ。

隠岐の島という小さな島で生まれ育ったにもかかわらず、
暇があれば山に登っていた。

そんな父が食道がんだと知らされたのは、
母が死んでほぼ7年の歳月が流れようとしていたころ。

母の死後、一年も待たずに私は最初の結婚をして、東京に住んでいた。
結婚と書いたが、当初は双方の親公認の駆け落ちといったところで、
式も挙げず、桜茶だけを飲んで旅立った。

つまり父を一人残して・・・
真向かいにおば夫婦が住んでいたこともあり、
また、父は料理が得意で、
若いころは冗談半分に編み物などもしていたという結構家庭的な人だったので、
あまり心配せずに自分の幸せを選んだのだった。

私が幸せになることが親孝行なのだという、
都合のよい論理で自分を納得させて・・・


病院へ検査に行くからという知らせを受けて
大阪へ飛んで帰り、程なく看病生活が始まった。

父が自分の病名を知っていたかどうかは今だにわからない。
頭の悪い人じゃなかったから、放射線科などへ行けば自ずと悟ったことだろう。

でも、最後までがんという言葉を口にしたことがなかった。
よって、死への恐怖をもみじんも表さなかった。
もしかしたら私が知っていた父より何倍も強い人だったのかもしれない。

大阪の病院から、東京女子医大へ最後の望みを託して移ったのだが、
約1ヶ月の入院生活の後、力尽きてしまったようだ。
最後の1週間は病院に寝泊りして看病することができた。
今でも、できる限りのことをしてあげられたと
自分に言い聞かせることができて私はしあわせものだと思う。

そしてもちろんこの約1ヶ月の入院生活を、夫がよく支えてくれた。
泊り込みの私に代わって買い物をして持ってきてくれたり、
私が近くの銭湯に行く間、片時もそばを離れず看ていてくれた。
まるで自分の父親のように接してくれた。

彼の父親が脳溢血で突然倒れ、何もしてあげる時間がなかったので、
もしかしたら、自分の父親と置き換えていたのかもしれない。


もう話すこともできなくなった父は、弱々しい字で
「今日は何日か」と書いた。
日にちを告げ、何気なく大相撲の話をして、
「だれそれが優勝したのよ。」というと、
うれしそうにうなずいたのが私の見た父の最後だった。

その後、主人や看護婦さんに勧められて少し休むために
うちへ帰ったとたんに、死の知らせを聞いたのだった。


父は少しばかりの保険金を残してくれた。
決して楽ではなかったそのころの生活。
その生活のために大切に使わせてもらうべきだったのかもしれないが、
自分の父親のように看病してくれた主人に
気晴らしをさせてあげようと、海外旅行を思い立った。


スキーの板を持ったことすらなかったのに、
アルプスでスキーをするというツアーに申し込んだのだが、
あいにく人員不足で成立せず、
京や奈良という古都が好きな私は、
カイロ、アテネ、ローマという3大古都を巡るツアーに参加した。


生前、ヴェニスへ行きたがっていた父。
スキーといい、古都めぐりといいイタリアが入っていたのは
因縁めいた気がしないでもない。
それまで特にイタリアを気にしたことがなかったのだから。





なんと、カイロ、アテネ、ローマの3都市の中では
アテネが実は一番のお目当てだった。
ところが、私が行った1983年当時はスモッグがひどくて
印象が台無し。(いまだにそうらしい。)

アクロポリスや、かつてのオリンピック会場や
それなりに感慨に浸れるところもあったが、
町はさびれた感じで、全体的な印象は今ひとつ。
(もちろん2,3日の滞在で語れることではないかもしれないが。)

カイロはまったく違った生活様式や、人々の姿に
少なからずカルチャーショックを受けた。
年端の行かない子供が働いているところを見て、
可愛そうだ、などという軽い答弁はできないと思った。

ピラミッドに上ったり、らくだに乗ったり、
大掛かりなナイトショウーを屋外でみたり、
それなりに楽しんだが、一度来ればいいなというのが感想。


そしてローマ!
私をとりこにしてしまった街!
その偉大さに、奥行きの深さに魅了され、
若者たちの明るさに感激し・・・

アテネには、遺跡がぽつんぽつんと残っていた。

ローマには2000年を経た建造物が今だ生気をもって息づいている。
大昔の建物に人が住み、コロッセオをトレヴィの泉を
自分の家の庭の中のモニュメントのように愛し、
チルコマッシモやカラカッラ浴場前でジョギングをしたり、
カンポ・デイ・フィオーリで今日の野菜を買い求める。

こんなに偉大なのになんて人間くさい街!
そして、人がいるからこそ街なのだ。
生活感がなければそれはただの風景だろう。

とにかくこうして生まれて初めてイタリアの地を踏んだのである。

               <Keiko>


    



 


蛇足:


かなり安易に 「イタリアで住みたいんですけどぉ」 みたいなお便りをいただくと、
すこし責任を感じてしまいます。
人生明日のことはわからないのですから、来るなとは言いませんが、
よく考えて、十分に準備をして、
できればトライする期間なども設けられるような計画ができるといいでしょうね。

観光客でいる限り、何度イタリアにこられてもお客様です。
ですから、ホテルマンもレストランでも大切に扱ってくれるでしょう。

でも、観光客に慣れていない市場のおじさんや、 官公庁の窓口や、
近所のおばさんなんかはお客様扱いはしてくれません。
母国で根を張って、少しゆとりができたらイタリアへ遊びに来る、
というパターンで生活できれば最高ではないかと私は思うのですが・・・

 

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